2018年07月22日(日)


質問

「作業中に祈る」や「大きな出来事の前に祈る」ということに関して質問です。

僕はクリスチャンで「この仕事がうまく行くように見守っていてください」や「この試験に合格するための力をください」のように神さまに祈ることがあります。ただ、祈っても仕事がうまくいかないときはいきませんし、祈っても試験に落ちることもあります。

そのような時、結城先生はどのように考えていらっしゃいますか。

たとえば、先ほどの「試験に落ちた例」の場合「神さまは私の願いを聞き入れなかった」のではなく「神さまは私の幸せのためにあえて試験に落とした」と考えればよいのでしょうか。

回答

主の御名を賛美します。

ご質問ありがとうございます。

私も若いときには「私のために神さまはあえてこうしたのだろうか」のように考えていました。でも最近は「そのように神の考えをすぐに合理化するのは正しくないかもしれない」と思うようになりました。

「神さまはどうしてこの私の願いを叶えてくれないのか」というのは普遍的な問いです。C.S.ルイスの『神と人間との対話』という本には「戦争、飢餓、あるいは災難、 さらに臨終のほぼすべては、ことごとく聞き届けられなかった請願の祈りの証拠です」という文章が出てきます。まったくその通りで、誰にでも「どうしてこんなことが起こるのだろう。なぜなんだ!」と叫びたくなる夜があります。

「神さまの考え」を簡単に見抜くことはできません。一つの人格というのは人間であっても無限に深い複雑さを持ち、すべてを理解することはできません。ましてや神ならなおさらです。

私がこんなに祈ったのになぜ叶わないのか。それは苦しい問いです。ですからそこで合理的な解釈に落とし込みたくなります。神さまのご意志は○○に違いない、と言いたくなります。でも、最近の私は出来るだけ疑問のままキープすることを試みています。神さまはこのようにお考えなのだろうと仮説は立てる。しかし神の意志を決めつけない。

祈りが叶わないとき、いったいどう考えればいいのか。典型的なパターンはいくつかあります。祈りが叶わないのだから神はいないと考える人もいます。祈りが叶わないのは祈りが足りないからだという人もいます。神はいるが、私は神に嫌われているから祈りが叶わないのだと考える人も(たくさん)います。私の進むべき道はこちらにはなかったのだと考える人もいます。どれが正解か証明はできません。

私は神の存在を信じており、神さまが全能であることを信じ、神さまが私を命がけで愛していることを信じています。その証拠はイエス・キリストの十字架です。神さまの存在や神さまの愛を疑うことはありません。その大前提を踏まえた上で、祈りが聞かれない理由を考えます。想像できる理由はさまざまですし、わからないこともたくさんあります。

「神さまうんぬんは関係なく、単に自分の力不足であったので実現できなかった」という場合は私によくあるようです。本来、自分がすべきことをせずに祈っても、叶わないことはよくあります。あたりまえです。神さまは能力を与え、時間を与え、助言者を与え、チャンスを与え、あとは私がやるという意志を持つだけ。でも、そこで私がさぼったら、さぼることを選び続けたら、祈りは叶いません。

もう一つ私がよく思うことは、自分の視野は非常に狭いということ。旧約聖書に出てくる「目先の食べ物に心を奪われるエサウ」と同じです。あるときには心の底から願い、祈り求める。しかし、後から振り返ってみると「ああ、あのとき、あの願いが叶わなくて本当に、本当に良かった!!」ということが人生にあります。

祈りが叶わなかった直後には、到底そんなことは考えられないし、合理化して「これもまたよし」なんて言えない。絶対に言えないことがある。どうしてこの願いが叶わないんだ!と叫びたくなる。でも、それにもかかわらず、何年か経って改めて振り返ると、ものごとの意味は変わってみえるのです。あのとき深く深く願ったのは何だったのかと思うことすらあります。

人は、未来を見通せません。神は、すべてを見通しています。

人は、自分の願いを求めます。神には、神の計画があります。

神はすべての祈りを聞いておられます。しかし、そのすべてが叶えられるとは限りません。でも、私が個人的な信仰として心に思っていることがあります。それは「私の願いは文字通りの意味では叶えられないことはあるけれど、より深い意味では必ず神さまが叶えてくださる」ということ。

プログラマが、顧客の要望を聞いてプログラムを作るとき、顧客の要望を文字通り叶えてはいけません。要求分析を行って、本当に求めているものを探らなければなりません。顧客はしばしば自分が何を求めているのかを知らないし、語る言葉を持たないからです。「顧客が願う方向性は正しいけれど、顧客が提示する具体的な解決策は間違っている」のはよくあることです。

実は、祈りについても、それに似た状況があるのではないかと思います。人は(少なくとも自分は)「これが自分の願いだ!」とか「これさえ叶えば満足だ!」と言いたがります。でも、本当にそうなのでしょうか。それは、本当に、本当の意味で自分の真の幸福につながるのでしょうか。それは人間にはわかりません。

本当の意味で願いを叶えるためには、全知全能である必要があるのです。

まとまりのない回答ですが、私が思っていることは以上です。

あなたの毎日の上に神さまの豊かな祝福と導きがありますように。

ご質問ありがとうございました。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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