2020年07月29日(水)


主の言葉がわたしに臨んで言う、「わたしはあなたをまだ母の胎につくらないさきに、あなたを知り、あなたがまだ生れないさきに、あなたを聖別し、あなたを立てて万国の預言者とした」。

その時わたしは言った、「ああ、主なる神よ、わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」。

しかし主はわたしに言われた、「あなたはただ若者にすぎないと言ってはならない。だれにでも、すべてわたしがつかわす人へ行き、あなたに命じることをみな語らなければならない。彼らを恐れてはならない、わたしがあなたと共にいて、あなたを救うからである」と主は仰せられる。(エレミア書1:4–8)

エレミア書の冒頭「わたしはただ若者にすぎず、どのように語ってよいか知りません」という言葉は、モーセとマリアを思い出させます。

民のリーダーとなり、出エジプトを命じられたモーセは「わたしは、いったい何者でしょう」と言います。(出エジプト3:11)

やがて救い主となる男の子を産む、と受胎告知を受けたマリアは「どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ夫がありませんのに」 と言います(ルカ1:34)。

これらの場面はよく似ています。

  • あなたには大きな役目がある、と告げられる。
  • わたしにはそのような役目は受けられない、と答える。
  • 神があなたと共にいる、と告げられる。

これらの聖書箇所を読むと「あなたには大きな役目がある、と告げられる場面は人生にはしばしばある」ということをいつも思います。そして「自分はそんな器ではない、まだ若いし、準備などできていないし、それに、それに…」と言いたくなる気持ちのことも。

「まだ若いし」「もう歳だし」

そして、こんなことも思います。自分の役目というものは、告げられなければわからないものかもしれません。自分が思う自分の姿は、実は正しくないのかもしれません。

自分のことは自分がよく知っている。自分の役目は自分がよく知っている。自分の能力や器は自分がよく知っている。そんなふうに思うけれど、いつもそうなのか。本当にそうなのか。実は「自分のことを知っている」と思うこと自体が傲慢なことではないのか。

神がいつも共におられること。必要な力はちゃんと与えられること。しかしながら、そのような神を信頼し、その役目を受ける態度が必要なこと。その様子を思い巡らせる。

「自分の役目はこう」と思うだけではなく「自分の役目はこうだと思っているけれど、神さまは何を私の役目だとご計画しておられるのか」と考える。

「自分の能力はこう」と思うだけではなく「自分の能力はこうだと思っているけれど、神さまは何を私に与えてくださるのか、何をすでに与えてくださっているのか」と考える。

それは、自分の世界を自分で決める態度から、神との対話を通して自分の世界を探っていく態度かもしれない。そのような態度は、自分の世界を想像以上に広げる。

神との対話を通して本当の自分の姿を探っていく。役目や能力も探っていく。「神を信じる」態度がなければ対話はできない。「自分はすべてを知っている」と思っていたのでは何も聞こえないし、そもそも問いもしないだろう。

愛する天の神さま。あなたは素晴らしい方。天地万物をお創りになり、私を住まわせてくださる方。あなたに感謝します。あなたの恵みは私に充分です。この小さきものがどのように生きていくのか、どうぞ教えてください。しもべは聞きます。主よ、お語りください。

必要な力はすべて主が与えてくださるので、感謝します。主よ、あなたは備えたもう方だからです。あなたがいつも共におられるので感謝します。恐れることなく、あなたに信頼して、今日の一日も歩ませてください。

天候のため、非常に多くの方が大変な目に合っています。病のため、たくさんの方が苦しみ、恐れを抱いています。神さま、どうぞ一人一人に必要な力を与えてください。慰めと励ましと助けを与えてください。あなたにできないことはありませんから感謝します。

私たち一人一人を愛してやまない聖なる主、イエスキリストの御名前によって祈ります。アーメン!

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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