2021年08月28日(土)

質問

結城さん、こんにちは。

クリスチャン三年目のものです。聖書も一通り読み、クリスチャンの友達にたくさん質問して疑問を解消して、納得してクリスチャンになりました。

しかし、心のどこかで本当にキリストを信じきれてないという感じがします。自分を納得させるためにキリスト教が真実であるとする裏付けや証拠を検索したり、他者の証をたくさん検索したりしてしまいます。

結城さんのキリスト教に関する記事もよく検索して、「確かに結城さんがこう言うならそうかもな」などと考えたりしています。

友達のクリスチャンからはそれでもいいから信仰を育てていくんだよと声をかけてもらってますが、心の底からは信じきれてない感じがしてモヤモヤしています。疑いゼロでキリストを信じたい自分と受け入れまいとする自分がいる感じです。

祈ったりはしているのですが……どうした方が良さそうでしょうか?

回答

主の御名を賛美します。イエスさまを自分の個人的な救い主として信じる決心をなさり、クリスチャンになられたのですね。おめでとうございます。

あなたに「信仰を育てていくんだよ」と言ってくれる信仰の友がいるのはすばらしいことです。

さて、あなたが率直に書いてくださっているお気持ちはよくわかります。心のどこかでは信じ切れていないという感覚も理解できます。そしてそれはある意味では健全なことです。

恐らくあなたは、聖書に書かれている神さまのこと、そしてイエスさまの十字架の救いを聞き「ここには私を救いに導く真実があるのではないか」と感じられたのだと思います。だからこそ、疑問を解消し、聖書の神様を信じる信仰の世界に飛び込んだのですよね。

あなたは「疑いゼロでキリストを信じたい」というお気持ちを持っていらっしゃるかもしれませんが、いきなりそこに至るというのは難しいですし、ある意味では無茶かもしれません。

人間関係でもそうですよね。ある人のことを「この人は信頼できるのではないか」と思った瞬間に「百パーセント信頼できるようになって疑いゼロになる」わけではありません。対話を重ね、ときには本当かなと疑問に思うときがあったり、またときにはやっぱり信頼できるなと思ったり、そのような「ゆれうごき」があるものです。

聖書の神さまは人格を持っている方ですから、聖書を読むことを通じて、そして祈りを通じて、神さまとやりとりを繰り返す必要があります。あなたの思うことを、祈りを通じて神さまに率直に伝えてみるのです。あなたの願いや、不満や、困ったことや、うれしいこと……あなたの気持ちを神さまに祈りを通じて伝え、そして耳をすまします。

そういった個人的な神さまとのやりとり、コミュニケーションがとても大切です。

私が書いた信仰に関わる文章をお読みくださり、ありがとうございます。「結城さんがこう言うならそうかも」と思っていただくのはうれしいのですが、できれば、それをきっかけにして、あなたご自身が、神さまと向かい合って対話なさることをお勧めします。あなたも祈っていらっしゃいますね。とてもいいことです。

私は私で個人的に神さまとのやりとりがあり、自分の信仰を育てています。そしてその結果として「私はこんなふうに信じています」「私はこんなふうに世の中のこと、人生のこと、愛のこと、神さまのことを考えています」という文章を書いています。

でも、それはあくまで、私の個人的な信仰のあり方です。

きっとあなたはあなたで、これからたくさん聖書を読み、たくさん祈ることを通じて、そしてこの人生でたくさんの経験を通っていくことで、神さまとのやりとりを深め、いろんな揺れ動きも体験しながら、信仰が強められていくと思いますよ。あわてなくても大丈夫です。

あなたの信仰生活を神さまが整えてくださいますように。そしてイエスさまの十字架を仰ぎ見て、聖霊さまの助けを受けて歩んでいくことができますように。イエス様のお名前でお祈りします。アーメン!

ご質問ありがとうございました。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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