2015年10月24日(土)

今日も、いつもと同じくネットでたくさんの人の言葉を読んだ。

でも今日は、いつもより悲しく感じる言葉が多かったかも。

うれしい、楽しい、美味しい、感謝!という言葉は、読んでいる方も楽しくなる。つらい、痛い、苦しいという言葉は、読みながら(お大事に)(祈ってます)と、そっと心で思う。

私が悲しくなるのは、他者への呪詛を読むときだ。自分に閉じた痛みや辛さというよりは、他者への恨みつらみ、妬みに中傷、非難に罵倒。そういう言葉を読むと、とても悲しくなる。

なぜだろう。「私は苦しい」と「あいつが悪い」との違いはどこにあるんだろう。そして、それを読んだ私の「悲しみ」はどこから来るんだろう。

そんなことを思う。

他人への呪詛を語らざるを得ない人がいたとする。その「語らざるを得ない状況」に、悲しみを感じるのだろうか。

人は、他人を変えることはできない。人のことをどう言ったとしても(ほめても、非難しても)、その人はほぼ100%変わらない。もし、人が変わったとしたら、その人自身が変わろうと思ったからである。

人は「私はこう思う」と自分の考えを言うことができる。そして、相手はそれに「なるほどあなたはそう思うんですね」と答えるかもしれない。

でも、他人に対して「あなたはこうあるべきだ」と言っても、たいていは無為に終わる。せいぜい「『わたしがこうあるべきだ』とあなたは思っているのですね」が伝わって終わりになるだけ。

私が「悲しみ」を感じるのは、そのあたりにある。相手に何を言っても意味もないのに言わずにはおれない気持ち。相手に何を言っても相手は変わらないのに言わずにはおれない気持ち。その気持ちに対して、悲しく感じるのだ。

無為な言葉を言うな、というのではない。いつも楽しい言葉を使えというのでもない。

私はただ、振り返ってみると、今日は悲しいつぶやきが多かったな、と思っているだけである。

2015年10月24日。

さわやかな秋の一日だったのにね。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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