2017年02月24日(金)

ところが、わたしたちの仲間である数人の女が、わたしたちを驚かせました。というのは、彼らが朝早く墓に行きますと、イエスのからだが見当らないので、帰ってきましたが、そのとき御使が現れて、『イエスは生きておられる』と告げたと申すのです。 ルカによる福音書 24:22-23

今日の聖句の少し前では、イエスの遺体がなくなっていて、婦人たちが困っているところに天使がくる場面があります。ふと思ったのですが、イエスが生まれるときには天使は羊飼いのところに現れ、イエスが復活したときには天使は婦人たちに現れていますね。

羊飼いも婦人たちも、どちらも当時は重きを置かれていない人たち。そんな人たちのところに天使は姿を見せた。そしてどちらの場面でも、天使を見た人たちは行動を起こしている。そのことについて、しばし思いを馳せてみる。

聖書にはそういう場面がよく出てくる。口下手な年寄りであるモーセが出エジプトのリーダーになる場面。身体も小さな末っ子ダビデがゴリアテをたおす場面。世の救い主が飼い葉桶で生まれる場面もそうかも。無力な存在に使命が与えられ、大切なメッセージが託される。

そのような聖句をしばし味わった後に、自分の今日一日に目を向ける。弱い自分にも与えられている大切な使命はあるか。小さな自分にも託されているメッセージはあるか。それが天与のものであるならば、きちんと行動に結びつけよう。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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