2017年07月13日(木)

さて、全地は一つのことば、一つの話しことばであった。 そのころ、人々は東のほうから移動して来て、シヌアルの地に平地を見つけ、そこに定住した。 彼らは互いに言った。「さあ、れんがを作ってよく焼こう。」彼らは石の代わりにれんがを用い、粘土の代わりに瀝青を用いた。 そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」 そのとき主は人間の建てた町と塔をご覧になるために降りて来られた。 主は仰せになった。「彼らがみな、一つの民、一つのことばで、このようなことをし始めたのなら、今や彼らがしようと思うことで、とどめられることはない。 さあ、降りて行って、そこでの彼らのことばを混乱させ、彼らが互いにことばが通じないようにしよう。」 こうして主は人々を、そこから地の全面に散らされたので、彼らはその町を建てるのをやめた。 それゆえ、その町の名はバベルと呼ばれた。主が全地のことばをそこで混乱させたから、すなわち、主が人々をそこから地の全面に散らしたからである。(創世記11章より)

実は、ヘテロな(キメラな)解決法が正解なのではないか、とよく思う。一人の人や、一つのコミュニティがカバーできる範囲もポリシーも限られている。ヘテロなソリューションをうまく組み合わせるのが鍵なのではないか。私はそれが(象徴的にいうならば)バベルの呪いを解く鍵だと思う。

神は、言葉を散らすことで、人が思い上がることを防いだ。それを受け止めるなら、人は、言葉が散らされた状況でも、「愛」によって協力しあえることを示すべきではないか。実はそれが、数千年にも渡る謎を解く鍵なのではないか。

方針が違っても、言葉が違っても、愛によって協力しあえる。

それは、とても、つじつまが合う。言葉が一つになったら、相手のことを思いやらなくても、相手のために自分を犠牲にしなくても、話が通じる。でも言葉が散らされたなら、相手のことを思うには、犠牲がいる。すなわち「愛」だ。バベルの呪いを解く鍵は「愛」なのではないか。

通常の解釈では、言葉を散らされたバベルの呪いを解いたのは、聖霊が下り異言を語り出した使徒行伝の場面だ。理解できない言葉を語り、でもその地域の人には理解できる。そこには神の力はあった。でも、人間の愛は示されただろうか? あの場面で、人間は自己犠牲を払ったか?

異邦人にも救いがあるとしたパウロの動きの方がむしろバベルの呪いを解いているように思う。異端と思われる人を受け入れるという意味で。散らされた人を愛で受容するという意味で。

というのは思考の遊びに過ぎないかもしれない。でも、言葉を散らされた状態でも(自分の知らない言葉を使っている人に対しても)、相手を受け入れるというのは、これこそ「愛」だと思う。わけのわかんないこと言ってんなーこいつ。という人を、それにもかかわらず受け入れる。それは、愛を示す行為である。

言葉が通じない相手 — 異邦人 — に対して、たとえ言葉が通じなくても親切にする。異邦人、異国の人、違う言葉を話す人、そういう人に対して、親切にしているか。周りを見渡して、違う言葉を話す人に優しくしているか。社会が、ではなく。組織が、ではなく。他ならぬ私が親切にしているか。

愛を作り出そう。平和を作り出そう。少なくとも、せめて、自分の周りには。言葉が通じない人に親切に。異邦人や異国の人に親切に。たまたま近くにいる人に親切に。なんの見返りも期待せずに親切に。それが、愛を作ること。平和を作ること。

そもそも、わたしたち自身が、少しの時間だけ、たかだか百年だけ、この世を旅する旅人だ。

愛こそ、バベルの呪いを解く鍵なのである。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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