「ゆるす」という選択肢について

2017年07月25日(火)  List  Edit  New

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。 」(新約聖書ヨハネ8章より)

これは、想像力の問題である。 聖書物語に書かれた記事を寓話として読むのもいい。 でもそのときに、自分自身を寓話に出てくるどの登場人物だと考えて読んでいるか。 多くの人は、自分を「石を投げる側」だと考える。 でも私は、どうしても自分のことを「姦淫をした女」 の側だと想像してしまう。 姦淫をしているわけではないのだけれど。

報道番組で、公的な立場にある人の個人的な行動が取りざたされる。ときにはそれが原因で職を追われる。それは、どうなんだろう。

公的な組織や、 公的な立場にいる人の不始末を批判してはいけない、 と言いたいのではない。 職にふさわしい行動が期待される面もあるだろう。 ただその際に「自分は誰の何を非難しているのか?」 という視点は忘れないようにしたい。そうでないと、別の道に逸れていってしまいかねないからだ。

「その役職にある人がそういう行動や振る舞いをするのは正しくない」 という批判は正しい。だが、「あいつは完全な悪だ。悪の人格だ」 と断じるのは正しくない。そのように結城はよく思う。 もう少し正確にいうなら「少なくとも私には、悪と断じる資格はない」 と思う。

自分が私怨で誰かを非難しているのか、それとも正当な批判を行なっているかをチェックする方法がある。 それは「自分が非難している相手の行為が実は誤解だったとわかった」 と想像してみるのだ。 そのときの自分の気持ちを観察すればいい。 「ああよかった。あいつはそこまで悪いやつではなかった」 と安堵するか、 「チッ、そんなはずは絶対にない。あいつはもっと悪いやつだ」 と思うか。

つまり「何を示されようが相手を悪と断じたい気持ち」 を自分が抱いているかどうか。 役割ではなく、責任ではなく、相応の償いではなく、 相手の人格と全財産と無限の謝罪を相手に求めているかどうか。

相手がいくら謝ってもゆるせないかどうか。 相手がどんなに善いことをしてもゆるせないかどうか。 全財産をあなたに与え、 命までもあなたに与えてもゆるせないかどうか。 存在が消えてしまっても、ゆるせないかどうか。 大げさな話だろうか。 それは、実は、考える価値がある問題だと思っている。

誰かを責め続ける気持ちは、ときに自分を不幸にするからだ。

結城のところには、 無数のお便りがやってくる。 そのうちの少なからぬ数が、 親や配偶者や子供に対する恨み言である。 そしてさらに、少なからぬ数が、 「すでに死んだ相手」への恨み節なのである。 これはこわい。 すでに死んでいて、 相手はもう何もできない。 でもその人を恨み続ける人生がある。とてもこわい。

ひどいことをされたから相手を恨むというのはとても自然なこと。 絶対に恨むな、少しも恨むな、というわけではない。でも、 考えてほしいのは、どこまで恨み続けるかということだ。

ひどいことをされた! いくら謝ってもゆるさない。 いくら金を積んでもゆるさない。 いくら相手が苦しんでもゆるさない。 たとえ相手が死んでもゆるさない。 ああ、死んだのね。 いい気味だ。 でも私はゆるさない…

相手が謝っても、 金を積んでも、苦しんでも、 死んでもゆるさないという気持ちがありうるのは理解できる。 ところで、 よく考えてほしいのだけれど、 あいつが死んで何年経っても、 何十年経っても、 深く深く恨み続けるというとき、 自分を苦しめているのはいったい「誰」なんだろう。

実は、どこかの時点で、 あなたの手元に選択権はあったんじゃないだろうか。 相手を「ゆるし」、 相手を「ゆるす」ことで、 自分を恨みから解放する選択権があったんじゃないだろうか。 恨みのスイッチを切ることができる瞬間があったんじゃないんだろうか。 「OK。これで恨むのは終わりにしよう。恨みのスイッチを切ろう」 というタイミングがあったのではないか。

恨む相手は、 すでに自分に悪意を示さなくなった。 それどころか、相手は自分の人生ともう無関係。 ていうか、もう相手はこの世にいない。

なのに、自分は、 誰に対して拳を振り上げて、自分を不幸にしているんだろう。

結城にメールを送ってくる方の中には、 そこに混乱のある人がたくさんいるように見える。

途中までは正当な怒りだった。 正当な憤りだった。 でも、どこかの時点で、 怒りも憤りも、 恨む相手ではなく、 ただ自分自身を傷つけまくっている。 そんな人が少なくはない。

とても、とてもとても悲しい。 本人に害をなす相手はもうこの世にいないのに。 まるで、「自分を不幸にした相手」の代理人を自分が引き受けたかのように、 そのように「自分が自分を不幸にしている」姿だ。それは、何と悲しいことだろうか。

選択肢は、常に、自分の前にある。 他の人は何を選ぶかはわからないが、 でも私は「これ」を選択する。 自分がこれからの人生を幸福に生きていくために。 自分は、選択権を行使する。 私は「これ」を自分の自由意志で選択する。

結城は、他ならぬ「あなた」が、 よい選択をなさることを祈っています。 大切な大切なあなたの人生。あなたが、 残りの人生を充実して過ごすことを祈っています。 神さまの祝福が豊かにありますように。

あなたのために、祈ります


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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