2017年10月09日(月)

以下は、聖書の中で結城が好きなシーンの一つ。神さまから民を導くことを命じられたモーセが「私は話すのが苦手なのでできません」と言い訳をすると、神さまが「言葉をよく話すアロンがいるじゃないか」という場面です。とても考えさせられるシーン。(新改訳聖書出エジプト4章より)

モーセは主に申し上げた。「ああ主よ。私はことばの人ではありません。以前からそうでしたし、あなたがしもべに語られてからもそうです。私は口が重く、舌が重いのです。」 主は彼に仰せられた。「だれが人に口をつけたのか。だれが口をきけなくし、耳を聞こえなくし、あるいは、目を開いたり、盲目にしたりするのか。それはこのわたし、主ではないか。さあ行け。わたしがあなたの口とともにあって、あなたの言うべきことを教えよう。」すると申し上げた。「ああ主よ。どうかほかの人を遣わしてください。」すると、主の怒りがモーセに向かって燃え上がり、こう仰せられた。「あなたの兄、レビ人アロンがいるではないか。わたしは彼がよく話すことを知っている。今、彼はあなたに会いに出て来ている。あなたに会えば、心から喜ぼう。あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら、わたしはあなたの口とともにあり、彼の口とともにあって、あなたがたのなすべきことを教えよう。彼があなたに代わって民に語るなら、彼はあなたの口の代わりとなり、あなたは彼に対して神の代わりとなる。あなたはこの杖を手に取り、これでしるしを行わなければならない。」

注意深く読むと、このシーンでモーセは神さまに二回反論していますね。1回目は「私はことばの人ではありません」と自分の能力を自分で限ろうとします。神さまはそれに対して「そもそも口をつけたのは私」「言うべきことは教える」と答える。

それに反論できなくなったモーセは2回目になると「どうかほかの人を」と言い出します。神さまはモーセの役割自体を変えることなく、モーセの1回目の反論を受け止めた解決策として、ことば巧みなアロンを提示します。ここがなんとも絶妙。

その後の神さまの説明も興味深い。ややこしいけれどよく読むと、神さま→モーセ→アロン→民という流れを示している。そして途中にぶれがないことを語る。上流工程の仕様が実装現場まで理想的に行くことを宣言する。

そこまで行ってからもう一度モーセの「私はことばの人ではありません」に戻ると、反論の「狭さ」に気づく。言葉の技術面はアロンにアウトソースできる。そもそもモーセは自分の言葉で勝手に語ることは求められてはいない。求められているのは、神が教えてくれる「言うべき言葉」を伝えることなのだ。

このシーンが印象深いのは「私はことばの人ではありません」というモーセの訴えから来る。突然の大役を命じられたり、リーダーになれと言われたりしたら、同じことを感じる人は多いのではないだろうか。「私は〇〇ができるような人ではありません」と言いたくなる場面だ。

そしてモーセと同じように、自分ができないことを並べたくなるだろう。「自分は昔からこういう性格でした。以前からそうでした。私は口が重いのです」のように。聖書は何千年も前に書かれたものなのに、まるで私のことみたい。

自分の能力を自分で限り、命じられた役割を勝手に解釈して「私にはできない。無理。他の人をあたって」ということはできる。しかし、注意深く自分のミッションに耳をすますなら、もしかすると大きな一歩を踏み出せるのかもしれない。

以上、旧約聖書「出エジプト記」4章10節から17節に関連したお話でした。

蛇足。もしもモーセが反論せずに「即座の従順」をしていたら、この後にやって来るトラブルを避けられたかもしれませんね…「金の子牛」を思いつつ。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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