2018年01月31日(水)

質問

結城先生はクリスチャンであると承知しております。数学は、この世界の謎を解き明かし、人類がこの世界のことを深く知り、世界を創りし神のことを深く知る道具となりうると思いますか。

回答

あなたの質問への直接的な答えではありませんが、私の考えを以下に書きます。

数学の問題を解くことで、世界の謎に迫るというのは多少疑義は残るもののわからないでもないです。でも数学の問題を解くことで神のことを知るというのはやや次元が違うような気がします。

神と世界との関係は、プログラマとプログラムの関係に似ています。世界を観察して神のことを知るのは、プログラムのことを観察してプログラマのことを知るのに似ています。確かにプログラマの考えはプログラムの中に一部、反映されてはいるでしょう。でもそこにはややギャップがあります。

新築の家の戸棚を開けたらそこに建築家本人がいることはありません。プログラムを眺めていたらプログラマ本人がいることもありません。世界の謎を探求することで、神の謎の一部には迫り、神の一部を間接的に知ることはあるかもしれませんが、大きなものが欠けていると私には思えます。

科学的な目で世界を研究するのは大事なことです。しかし、同じ態度で神の探求をするのは私には大きな誤解を含んだ行為と思えます。神を科学的な目で見ることで、本来の姿が隠れてしまうということです。だからといって非科学的な考えに生活が支配されても困るわけですが。

たとえばこんなふうに考えてみましょう。自分の結婚相手のことを知りたいというときに、科学的な目で相手を見ることは悪いわけじゃないけれど、それがよい方法かというと違いますね。身長を測定し、体重を測り、科学的な調査をしたからといって相手の大切なところ、肝心なところには肉薄できません。それよりは相手が語る言葉に耳を傾けるほうがずっといいでしょう。人格を持つ相手を知るのに科学的な探求を進めるのは悪くはないけど、ずいぶん迂遠な方法といえそうです。

ところで、キリストの受肉というのがいかに驚天動地の出来事であったかを思います。それはいわば、プログラマが自分の作ったプログラムを愛するあまり、コード片となって(プロセスかスレッドかなんでもいいけど)、プログラムの中に飛び込んだような行為だからです。陶器を作る陶器師が、陶器を愛するあまり自分が陶器になるような行為です。

おっと、話がそれました。私がいいたかったのは、科学的な立場と信仰的な立場は、次元を異にするものだということです。神のことを知りたいと願うのは悪いことではありませんし、たとえば数学の研究を通して神の存在を感じる人がいるかもしれません。でも、神のことを深く知るというのは科学的な目で見ることを通してではなく、信仰の耳を通して聞くことから始まるのではないでしょうか。私は、科学の目と信仰の耳の両方を持つことが健全な生活に繋がると考えています。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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