2018年02月25日(日)  List  Edit  New

私は、父が理科教師で、中学時代から(当時創刊された)ブルーバックスを楽しんできた世代なので、自分が理系であることはみじんも疑わなかった。大学に入るまでは。

ところが、大学に入ってから私が読んだのはブルーバックスではなく講談社現代新書だった(当時はクリーム色のカバーだった)。そのとき思ったのは、私は父だけの子ではなく、父と母の子であるというあたりまえの事実だった。

父親は典型的な理系で、理科教師で、他人への配慮はあるけれど、細やかさにはやや欠ける人だった。母親は看護婦で、それほど理数に長けているわけではないけれど、患者さんの視点に立って配慮し、傾聴し、ときに冷徹に任務を遂行する人。

結城は自己分析するたびに、ああ私は父と母の息子なのだなとよく思ったものだ。私は父と母から最高のものをそれぞれいただいて人生を送っているのだな、と。父はすでに他界し、母とは年に一度会うか否か。でも、私の中には確かに父と母がともに生きている。

そう、共に生きている。私の父母は仲が良かったけど、もしも父母の仲が悪いとしても、子である私の中には父と母が共存している。ともに一つの人格(私)の中に命を得ている。

このような姿に人間を設計した神はなんとすばらしい設計者だろう!人間は感情的な動物で、ときに最愛の夫婦であってももめごとが起きる。でも、子供の中には「愛」が息づいている。一つの人格に二つの性格が共存するという形で。

それは、すごいことだ。自分という存在は、存在しているだけで、父と母の愛の証明なのだ。存在しているだけで、父と母の愛をinstantiateしている。証拠だ。事実だ。例示だ。私は、父と母の愛の例示なのだ。

多くの人は親がきらいである。親が苦手である。父が嫌い、母が嫌い、両方が嫌い。そしてその数歩先には「自分が嫌い」が存在する。実際、自分が嫌いな人は世の中に多い。良い悪いではない。純粋に「多い」。

多くの人は、自分と親とを「切り離したい」と願う。嫌いだから、苦手だから、何をいえばいいかわからないから、気まずいから、と。それは別にいいんだけど、あるときふと気付く。自分が親にとても似ているということに。でも、自分を自分から切り離すことはできない。どうしよう。

確かに、自分と親とは別の存在だ。だから親を切り離すことを気に病む必要はない。でも、でも、問題は自分なのだ。親ではなく、上司でもなく、パートナーでもなく、社会情勢でも、政権でも、時代でもない。

実は、「私と私」の問題なのであった。簡単にいうならば、私は私をもてあましているのである。

昔、あるインテリの学者さんはこんなことを言った。「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである」と。当人は、まわりから賞賛されるような学識を持っていたのですが。

当時のインテリはこんなことを言った。「わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか」と。

知識が増えても、自分の行動は善くならない。メダルが増えても、自分の行動は善くならない。自分のファンが増えても、収入が増えても、異性からちやほやされても、学歴が増しても、自分の行動は善くならない。なぜだろうか。

「自己」を実現することや、「自己」を承認してもらうことや、「自己」の活動の成果が多数に伝えられることは、「自己」そのものの良し悪しとは無関係だからだ。

生きることは難しい。全員が、それぞれに「自己」を背負わなくてはいけないから。生きることは難しい。あなただけではない。例外なく、一人の例外もなく、みんなが難しいのだ。

どんなときにも頼りになる人がいればいい。でも、困ったことに、その頼る相手も、自分と同じような迷える子羊にほかならない。ではどうするか。

人間以外の存在に頼るしかない。人間はすべて死ぬ存在。しかも、なぜこの世に自分が生まれてきたのかを意識する人は一人もいない(だって、理由以前にすでに生まれてきてるから)。

結城は、聖書の神に頼る人生を生きたいと願う。自分の力は有限だ。限りが有る。愛の源泉であり、命の源であり、そもそも人をお作りになった方。私はこの方を選ぶ(でも実際は神さまから選んでいただくのだけれど)。

いつも喜び、たえず祈り、すべてに感謝。私はそういう人生を生きたいと願う。そしてそれを聖書の神様に委ねる。私ががんばらなくてもいい、神さまががんばる。私は誠実に、神さまが命じる「人としての生き方」を追っていく。

でもそのような生き方は、もともと完成できるものではない。私は、神さまを信じつつ、自分の現在にできる最大限のことを愛にささげる。つまり、自分よりも他者を優先するという心がけである。

愛とは何か。他者の生のために、自分が死ぬことである。ちょうど結婚がそうであるように。洗礼がそうであるように。私は生きる。それは愛するもののために自分が命をささげるように。そのように生きたいと願う。

聖書を読みたい・教会へ行きたい

豊かな人生のための四つの法則


 このお話をTwitterでシェアする

結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

Home Twitter 結城メルマガ