2018年03月29日(木)

質問

結城さん、こんにちは。

いままで、学ぶときや本を読むときは「すべてを説明してくれる理屈」を求めていた気がします。そして、うまくいかなければ、部分的に取り入れるのではなく、ぜんぶリセットして放棄ということをしていましたので、積み重ねができていませんでした。

最近は、学ぶときや本を読むとき、何かをするときはメタな視点を持つように意識しています。

この本のここと、あの本のここは同じで、ここは違う。こっちは前読んだ本と同じだ……というぐあいです。

ただ、そうすると今度は「心の置き場」に困ってしまいました。価値判断の基準がわからず、自分はいったい何をよりどころにすればいいのだろうか、という気分になります。

結城さんは、この、心の置き場について、どのように対処していますか。

回答

ご質問ありがとうございます。

あなたは誠実な方ですね。ちゃんと考えよう、しっかり考えようと思わなければ、あなたのような考えには至らないと思います。

世の中にあるさまざまな意見に対して「あちらにも一理ある」「こちらにも一理ある」と考えていったとき、はてさて自分はどこにいるのか? という感覚に近いと理解しました。

これはたいへん根源的な問いであると同時に大切な問いです。なぜなら真面目にこの質問を外挿するならば「何のために生きるのか」や「私はどう生きるべきか」という問いに必ず行き着くからです。

結城の価値観の土台には聖書があり、キリストを信じる信仰があります。私なりに「私はどう生きるべきか」という問いに答えるなら、こうなります。

私たちはいつかこの世では死ぬ存在なのだから、この世に重きを置き過ぎてはいけない。この世に目を留めすぎると、死後にある永遠の世界を逃がす危険性がある。自己中心の罪を悔い、神に立ち返れ。

自分は間違いを犯す存在なのだからそれを前提に行動せよ。他人も同じなのだから、自分を赦すように他人も赦せ。自分の持ち物はすべて他者から与えられたことを忘れるな。

そのような答えになると思います。自分がそれを実行できているかはさておき、私が目指したい価値観は以上のようなものです。

ここで、あなたの誠実な問いに戻ります。あなたが求めるような、確かな拠り所は、多くの思想家や哲学者が求めているものと同じだと思います。「私は、いったいどのように生きればいいのか」という問いです。世の中を見渡すとさまざまな価値観がひしめいていますが、それはこの誠実な問いになんとか答えようとする試みです。

でも、私が思うに、私たちが接する人間は例外なく、限られた命、限られた能力、限られた時間の中で生きているのです。言い換えるなら、この世での生に限りがあるという制約は、どんな偉人であれ、程度の差はあれど、私たちと同じ。偉人でも、どんぐりの背比べなのです。

誰かを頼りにしたとしても、その人はいつか死にます。だとすると、そこに全面的な信頼は置けるのかな、と思います。

本当に本当に頼りになる存在はどこにいるのか。

たとえ、核戦争が始まって人類がバタバタいなくなる状況においても信頼できる存在はどこにいるのか。

たとえ、地球が壊れんばかりのできごとが起こる状況においても信頼できる存在はどこにいるのか。

たとえ、他ならぬ自分がたったひとりぼっちで、いまや死にそうな状況になったときでも確実に信頼できる存在はどこにいるのか。

そんなときでも信頼できる存在は、人間ではあり得ないのでは、と思います。

「死」を、特に「自分の死」をどのようにとらえるかが、価値観形成にとって大事であることがわかります。人間は基本的に頼りになりません。だって死んでしまう存在ですから。

ちょっと待って。自分自身も人間だよ。いつか死んでしまうじゃん。年をとって、動けなくなって、苦しくなって、いつか死ぬんだよね。いくらお金を稼いでも、命を永遠に引き延ばすことはできない。どれだけ有名になっても、命を永遠に引き延ばすことはできない。どれだけ素敵な家に住んでも、どれだけ大きな会社に勤めても、どれだけ身体を鍛えても。

自分はいつか死ぬ。それは100パーセント確実なこと。

そのように「死」を自分のこととしてとらえたとき、「死んだら無になる」と「死んだあとに永遠の世界がある」との間には大きなギャップがあることに気づきます。死の問題は生の問題と表裏一体なのです。

土台がしっかりしていないところに、いくらしっかりした家を建てても無意味です。しっかりした岩の上に家を建てるか。砂の上に家を建てるか。どんなに豪華で、どんなにセキュリティがしっかりした家を作っても、砂の上に建てるのは愚かです。永遠に根ざさないものはいつか朽ち果てます。

「自分は死後どうなるのか」について科学的・物質的・客観的には答えられるでしょう。自分の肉体は、死んで焼かれて終わりです。では、自分の存在とはそれですべてなのでしょうか。自分の存在とは肉体がすべてだと主張する人は、死んで焼かれて終わりです。

自分の存在とは何か。いや、そんな抽象的な話はどうでもいい。ほんとにどうでもいい。大事なのはこういう問いだ。私は死んだらどうなるの? 無になるの?それに答えるのが信仰です。キリスト教は「否」と言います。あなたは死んでも無になるわけではない。死後の裁きがあります。そこで天国に行くか、それとも滅びてしまうかが決まります。それは科学とは別次元の話ですが、大事な話です。

自分が生きて行く上で「宗教? そういうのはちょっと勘弁」という人がほとんどでしょう。でも実は、価値観の根底には、宗教観が関わってくる。特に死生観は大きく関わってくる。私が生きるとはどういうことか、それをしっかりつかまないと、つかみ続けていないと、あっという間に虚無に落ちるから。そして、私が生きるとはどういうことかを考えるというのは、私は死んだらどうなるのかという問いに深く関わっている。当然のことです。

自分。他ならぬ私。私は、死んだらいったいどうなるのか。

どんな偉人でも、この世にいられるのは百年足らずです。そもそも地球だってそうだ。永遠には存在できない。宇宙の終焉もやってくる。もしもそれですべてならば、私たちの活動のすべてのすべては、かりそめのものではないか。はかなく消えるかげろうのようなものだ。でも、ほんとうにそうなのか。自分の存在とはそういうものなのか。

自分の死に向き合うというのはこわいことです。うやむやにしてお茶を濁すのも自由です。しかし私は、死生観にこそ、自分の生きる方向を見出すチャンスがあると思っている。

自分のよりどころをどこに置くか。

自分の価値観はどうなっているか。

死生観はどうか。

そもそも、私は死んだらどうなるの?

自分は、砂の上に大切な家を建てようとしていないだろうか。

多くの人が、他人事のように自分の人生を考えています。自分の命がそこにかかっているのに、ショーケースに並んだ価値観から「さあ、どれにしよっかな?」みたいな気分でいる。健康を気にする人は多いのに、死後を気にする人は少ない。

結城は、クリスチャンです。

私は、この世を生きる小さな存在ですが、キリストを信じる信仰により、この世を去った後は天国に行き、永遠の命を得る約束を得ています。私がえらいからではなく、神さまの恵みによるのです。

私の土台にはキリストがいます。私は確かな土台の上に自分の家を建てているのです。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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