2018年04月03日(火)

質問

科学と宗教について、結城先生がクリスチャンであることもふまえた上でおうかがいします。

「宗教の教義や聖職者のいうこと」と「科学の示すこと」とは必ずしも一致しません。

科学が重要視する演繹的な論証の過程を経ずに与えられる「価値観」や「善悪観」や「道徳」を正しいものとして受け入れることは可能なのでしょうか。

回答

ご質問ありがとうございます。

科学が語ろうとしている知識と、宗教が語ろうとしている知識は性質が違うので、両者を素朴に比較するのはあまり意味がありません。

科学が語ることと、宗教が語ることをナイーブに比較するというのは、実は科学と宗教の両方ともわかっていない行為ではないかと思います。

科学的な知識は大切です。科学は、人類が長い歴史を経て得た最強の知識であり方法論の一つです。でも、科学が扱うことができることには限界があります。科学のことをよく考えている人ほど、その限界をわきまえていると私は思います。何でもかんでも科学で解決するわけではありませんからね。

とても簡単な例を挙げると「あなたはなぜ生きるのか」という問いに科学は答えることができません。宗教も答えることはできませんけれど、それに対する示唆を与える可能性はあります。

聖書の語る言葉や、聖職者が語る世界観が、あたかも科学的主張に見える場合がしばしばあります。世界の創造や奇蹟について考えるとき、宗教的な主張はしばしば迷信や非科学的な主張にも見えることもあるでしょう。

しかしながら、批判的な目を少しだけ緩めて考えると、さまざまな見方が可能であることが理解できます。あくまで例ですが、聖書の創世記には「天地創造」の記事が書かれています。あの記事を「六日目に人間が創造されたなんて科学的にナンセンスだ」と見ることはもちろんできます。しかし「人間というものは原初から存在したわけではない」という主張とも読むことができますし、「人間が存在する場面においては、人知を越えた順序や秩序があったのだ」という表現であるとも読めます。

科学的な見方において、人間は「対象物を観察する」という観察者の立場に立つことが多いでしょう。でも、それだけで森羅万象を扱えるわけではありません。たとえば「あなたはなぜ生きるのか」という問いについて考えたり、自分なりに主張を組み立てるときには「対象物としての自分」を考えても話は進みません。他の誰とも違う「自分」、交換不可能な「自分」、かけがえのない「自分」というものを取り扱う必要があります。その際に「対象物を観察する」ような目で自分を見るというのは難しいことだと思います。

私たちが生きていく中で、交換不可能で一回しか通れない道というのはたくさん存在します。でも、そのあまりにも特殊な事象に対して科学が教えてくれることは多くありません。なぜ生きるのか、この相手と結婚すべきか、仕事をどうするか、そこで科学ができることはほとんどないでしょう。もちろん、無数の判断を行う際に統計的なデータを扱うことで科学が役立つこともあります。しかしその場合でも、科学はあなたの代わりに決断してはくれません。

「他ならぬ私」「交換不可能な私」「かけがえのない私」の振る舞いに示唆を与えてくれるものは、哲学だったり、宗教だったりします。これはキリスト教固有の話ではありません。科学が教えてくれるものには限界があり、科学に詳しい人ほどそのことを自覚しているという話です。

おおもとの質問にもどります。

道徳観、価値観、世界観、倫理観、それらは科学的な方法論で語られるものではありません。非科学的なデマや迷信に振り回されるのは愚かなことです。しかし、その反面、科学的手法による理解しか、世界を味わい考える方法論を持たないとするならば、枯れた砂地のように実りが薄くさびしい人生になる危険性があると私は思います。

こちらも合わせてお読みください。


 このお話をTwitterでシェアする  このお話についてnoteで書く

結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

Home Twitter 結城メルマガ note