2018年07月05日(木)


質問

最近クリスチャンになったものです。

毎日祈りの習慣もできてきて良い生活がおくれてきていると感じています。ただ、たまに旧約聖書の中に出てくるいくつかの矛盾点や新約聖書内のおとぎ話のようなエピソードを見るたびに自分の信仰が揺らぐことがあります。結城先生はこのようなことで信仰が揺らぐことはありませんか。

回答

私はあまりそういう点では揺らがないですね。私はたいてい「いまの私はこの聖書のメッセージをどのように読んで、どのように自分の今日に適用していくべきだろうか」と考えて聖書を読むようにしています。

簡単な例でいうと「天地創造は七日間なのか」という問題。天地創造が現代の感覚で24時間×7で行われたと考えるのは納得しがたいものがあります。私は、そもそもこの天地創造は、物理的な地球のことを言ってるのかしらと思っています。科学的な視点だけで世の中を見ることに慣れてしまうと混乱しそうです。

ある人は、「七日間」というのを「七つの段階」だと考えて、宇宙ができるプロセスが七つの段階からなると考えているようです。私はそれが正しい解釈かどうかは知りませんが、まあなるほどと思わないではないです。

ところで私は、聖書にある天地創造のエピソードから、もう少し大きなメッセージを読み取ります。それは「自分がこの世に生まれる前に、この世を整えてくださった方、すなわち神さまがいるのだ」ということです。自分がいまここに生きている場所としての宇宙は、偶然にできたものや、適当に作ったものではなく、神さまがきちんとした段階を踏んで創造なさったものだということ。神さまがほかでもない私のために、私の生きていく場所を整えてくださったことの意味を考え、味わうようにしています。

聖書を通して読むと、そのような神さまの態度というのは一貫しています。神さまは計画を持ち、それを実現します。神さまは預言を与え、それを成就します。予表があって、実現があります。人間が生まれる前に神さまが場所を整えてくださったのと同じように、私たちが天に帰る前にイエスさまは場所を整えてくださいます。

自分の都合のいいように、特に自分の行動を正当化するために、聖書の解釈を曲げるのは正しくありません。しかし、聖書の言葉がいまの私にとってどのような意味があるのだろうと考えて注意深く「耳をすます」ことは大切です。科学的な検証をしてやろうという態度ではなく、ここに書かれたメッセージがいまの自分に提示されていることの意味を考え、味わうのです。

旧約聖書には、たくさんの戦争の話が出てきます。私自身はそれを現代に当てはめて、戦争をするのを正当化してはいけないと思います。しかし、自分の毎日を振り返って見ると、確かに「戦争」と呼びたくなるような事態はあるのです。いわゆる戦争ではないのですけれどね。旧約聖書に描かれている「戦い」は自分の毎日にもしっかり存在しています。あるときは誘惑との戦いかもしれませんし、悪いことをしたくなる気持ちとの戦いかもしれません。

聖書の中で雄々しく戦う姿は、リアルな戦争をするためではなく、自分が厳しい毎日と戦うためのはげましになりうるのではないか、と私はよく思います。ゴリアテを倒した少年ダビデの物語を読むとき、注意深く読むとき、ダビデは何のために戦ったのか。そのときに選んだ手段は何だったのか。それを文字通り受け止めるのではなく、現在の自分に当てはめたならばどんな行動に相当するだろうか。私はそのように読むのが好きです。

聖書に出てくるおとぎ話のようなエピソードというと、たとえばノアの箱舟の話やヨナの話などもそうですね。それらを歴史的に問うたり、科学的に検証するのもいいですけれど、「その場に自分がいたとしたら、どうしただろうか」や「今日の私に当てはめたらどういう話なのだろうか」と考えることに意味があるように思います。

ノアの箱舟の話で、ノアはまだ雨が降らないうちに箱舟を作り始めました。これが自分のミッションだと信じていることを遂行するとき、もしかしたら自分はノアのように馬鹿にされたり笑われたりするかもしれません。でも、箱舟を作るためには時間が必要でした。雨が降り始めて、これはまずいぞ、もしかしたら本当にひどいことになるのではないか、とわかってから用意をしては遅いのです。他人の嘲笑や無理解に負けず、大切なミッションに備えることは大切である……これは私たちの人生になんとぴったり当てはまるメッセージでしょうか。

ヨナの話で、自分のなすべき使命からすたこら逃げ出そうとするヨナの姿はなんと自分にぴったり当てはまるでしょうか。でも結局は、使命からは逃げられないのですが。

聖書に書かれているものを検証してやろう、科学的に暴いてやろうという態度で読むのは、研究として悪いわけではありません。しかし、私自身はそこにはそれほど興味を引かれません。そのような行為は、彼女をタンパク質の塊に分解し、その中に愛を探すように感じるからです。

聖書を上から見るのではなく、聖書の言葉に耳を傾ける態度によって、私は幸せの道をたどろうと思っています。サムエルの「しもべは聞きます。主よ、お語りください」という態度にならいたいと思っているのです。

せっかく、聖書に出会い、信仰を得ることができたのですから、堅く立って動かされることなく、神さまが聖書を通して他ならぬ自分に送ってくる個人的なメッセージ、ときにかなったメッセージを受け取りたいと私は願っています。

私はおおむねそのようにして聖書を読んでいます。あなたの人生が神さまに導かれるものとなりますように。ご質問ありがとうございました。

リンク

蛇足

聖書の「おとぎ話」のようなエピソードについて思うとき、私は同時にこの世と自分の人生についても思います。この人生というのは、少し見方を変えると「おとぎ話」のようなものではないのかしら。私たちは当たり前のように毎日を送っているので気付かないけれど、別世界の人が私たちのあり方をながめるなら、「おとぎ話」のように見えるのではないかしら。

変なたとえになりますが、もしも精子や卵子に意識があったとしたら、精子や卵子は受胎後の人生を想像できるでしょうか。スケールも違う、時間軸も違う、まったく違う世界のことを想像できるでしょうか。言葉には限界があります。あまりにもかけ離れた世界のことをうまく伝えるためには、一種の「おとぎ話」のような形を取らないと、ほんとうの意味は伝わらないのではないでしょうか。私は「天国を人間に伝える試みの困難さ」について想像しつつ、そんなふうに考えることがあるのです。


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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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