2018年07月06日(金)


質問

あくまで仮定の話です。

この世界ととてもよく似ていますが、少し違うパラレルワールドがあるとします。結城浩さんもその世界に住んでいます。思考パターンや人生への態度はこの世界の結城さんとほぼ同じようです。その世界でも「キリスト教」と呼ばれる宗教があり、世界で最も多くの人に信仰されています。その信者は「クリスチャン」と呼ばれているとします。

しかし、その教義、すなわち聖書に書かれている神の教えは、いま我々が住んでいる世界の聖書に書かれた教義とは違うものだと仮定します。どのように違うのかは分かりませんが、その聖書が我々の世界に持ち込まれても、多くの人に信仰されることはないと断言できるような内容だとしましょう。

この場合、パラレルワールドにいる結城さんはクリスチャンになる/クリスチャンであるでしょうか。

回答

ご質問ありがとうございます。

私の答えはこうです。「わかりません」

あなたのご質問は、パラレルワールドというSFめいた表現になっていますが、これに通底する質問はいろんな方からいただきます。

あなたの問いの根源にあるのは、現在の「キリスト教」の教義の正しさや真実さを客観的に証明できるか、科学的あるいは論理的に証明できるか、という問題意識であると私は感じます。

私の理解では、そのような証明はできないと思います。教義の正しさ、信仰の正しさは数学のように証明はできないのです。

「現在の○○は本当に正しいのか」「○○は、ほかの可能性もありえたのではないか」というタイプの問いは、科学では重要です。でも、人生を考えたり、生きる意味を考えたりするときには、無駄とまではいいませんが、必ずしも有効にはなりません。

「現在の私は、実は他の私でありえたのではないか」という問いは新たな発想を促すにはいいことです。夢もあります。でも、とどのつまり、私は私としてこの一度限りの人生を生きるのです。時間を巻き戻すことはできませんし、パラレルワールドに行くことはできません。

思考実験としては意味があります。しかし、私は途中で何があろうとも、たった一つのこの時空間の中で、たった一つの心と身体を持って生き続けます。信仰について考えるとき、私はその抜き差しならない一回性を脇に置くことはできないと思っています。

自分があるとき、とんでもない失敗をしたとしましょう。ああ、時間をほんの数分、いや数秒でいいから巻き戻してくれ! さっきの私の一言を取り消させてくれ! …そんなことを思った経験は多くの人が持っています。でも、時間は巻き戻せない。放った言葉は取り消せない。「抜き差しならない一回性」とはそのことを言っています。

その「抜き差しならない一回性」の重みを自覚した人でないと「罪」はわかりません。「罪」がわからなければ「赦し」がわかりません。「赦し」がわからなければ「救い」がわからないのです。

そして、「罪」も「赦し」も「救い」もわからないなら、キリスト教というものはなんの意味も持たないのです。

キリスト教は、大変プラクティカルなものとも言えます。私たちが日々感じている虚しさ、頼るものなど何一つないのではないかというおののき、自分のしてしまったことは決して取り返せないという一回性。それらと対峙するためのマニュアルが聖書なのです。

私たちは例外なく死ぬ。そして死ぬまでは生きる。それまでの時間はたかだか百年。その時間を自分はどう埋めるか。真剣に人生に立ち向かったとしても、人は必ずどこかで失敗し、傷つき、悩み、迷う。しかも一度起きたことは取り返せない。絶対に時間を巻き戻せない。

あなたの質問に戻ります。思考実験として、私がパラレルワールドで生まれたと仮定しましょう。その世界での私は、恐らくは「本当に幸せになりたい」と願い、自己の失敗に苦しみ、死をおそれるでしょう。そして、もがきながら毎日を進む途中で出会った「ここにこそ真実がある。これこそが私の生きる道ではないか」と信じる道を歩くでしょう。別世界の私もそうあってほしいと願います。でもそれは「そっちの世界で生きる私」の問題です。「こっちの世界で生きている私」の問題ではありません。

私はクリスチャンで「キリストは私の救い主である」という信仰を持って生きています。それが「こっちの世界で生きている私」の生き方なのです。

以上です。ご質問ありがとうございました。

ああ、一つ忘れていました。この問題は「あなたは、他の人と結婚した人生もありえたのではないですか」という問いにちょっぴり似ています。答えは「ありえたかもしれないが、それはすでに別の人生であって、いまのこの私の人生とは異なるものです」になります。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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