2020年08月15日(土)


質問

私は傲慢な性格で、他人や物事をどうしても見下してしまいます。

謙虚さを身につけるにはどうすればいいですか。

回答

人間は、一人の例外もなく傲慢なものです。程度の差はあるかもしれませんが、その差は実は微々たるものだと思います。私はそのように思っています。

ただ人によって違いはあります。それは、傲慢な態度をとった後でそれを改めることができるかどうかです。相手に対して無作法なことをやったり見下すような態度をとった後、必要があれば謝ることができるかどうか。たとえばそういうことです。

どんな人でも、すべての時間すべての場合において謙虚になる事は不可能です。あるときには傲慢な態度をとり、あるときには反省して謙虚な態度をとる。それが多くの人だと思います。願わくば、傲慢な態度を取る場合を少なくすることを心がけることが大事なのでしょう。

そういう日々の心がけとは別に思うことがあります。それは自分が憧れる何か、絶対的な他者、どうしても自分が叶わない、それも圧倒的にかなわない存在を持っているかどうかです。あなたはいかがですか。

そもそも自分はこの存在に比べたら圧倒的に小さい存在です。そのような存在を知らないならば、傲慢になっても無理はありません。他者を見下すという行為は、より高いところを見ていない行為ともいえます。

そう考えてくると、とても難しいことに気がつきます。圧倒的に自分よりも優れている存在を知りながら、自暴自棄になったり自己卑下をせずに過ごすというのはなかなか難しいことですから。

私は自分が謙虚だとは思えませんけれど、傲慢ではなく謙虚でありたいとは思います。なぜそう思うかと言うと、傲慢な態度や、人を見下す態度は非常に格好悪いことだと思うからです。

なぜ格好悪いと思うかというと、人を見下したり傲慢な態度を取るのは、そうしなければ自分を保てない人、自分の立場を守ることができない人のように他人には見えると考えるからです。

人を見下す態度というのは、ちょうど、こわくていつも吠えてばかりいる犬のような態度に感じます。

いま話しているのは、傲慢にならないようにするために、自分の恥ずかしさを使うということです。それがいいかどうかはわかりません。

少し気になるのは傲慢な「性格」のように、自分に密着させている点です。そうではなくて、傲慢な「態度」や傲慢な「言葉」のように考える方法があります。「性格」だと「性格だから仕方がない」と考えがちです。でも「態度」や「言葉」のように具体性があるならば、改めやすくなります。

しかしながら、そうやって努力した後に、いささか深いところにたどり着きます。「なぜ、自分はこんなに人を見下すのか」を真剣に考えるならば、「自分が恐れているもの」にぶつかることがおうおうにしてあります。

そこから先は、わたしには何とも言えません。わたし自身は、クリスチャンで、聖書の神さまとキリストを信じる信仰とによって、光を見ています。人間とはどんな存在なのかという私の理解も、聖書に多くを得ています。

どんな人間にも絶対に逃げられないことがあります。自分のこの世の命がいつか終わるという事実です。そこに解決を与えてくれるものとして、私は聖書の神さまを信じ、キリストの救いを信じているのです。

以上です。ご質問ありがとうございました。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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