2020年12月20日(日)


質問

結城先生、こんにちは。

先生は、人は年をとってからでも神様を受け入れることができるとお考えになりますか。

いま住んでいる国には、信者の方がたくさんいらっしゃいます。信者の皆さんが神様を信頼し、善い行いをしようと心がけて日々を生きている姿を見て、私はとてもうらやましく感じています。

しかし、私はとても物質主義的な思想を持っているので、神様を受け入れることが難しく、そんな自分を残念に感じ、ときどき泣きたくなります。

また、信者の方の恩寵の中に生きているような生活にあこがれて、信仰を持てたらよいのにと私が考えるのは、不誠実な下心のようにも感じています(彼らの生き方は信仰の結果であって、目的とするものではないのではないかと思うからです)。

生きているうちに神様を心から信じられる日がきたらどんなにいいだろうと思って、質問いたしました。お考えを聞かせていただけると嬉しく思います。

回答

こんにちは。ご質問ありがとうございます。

もちろん、年をとってからでも神さまを受け入れることができますよ。年齢には関係がありません。あなたがどちらの方向へ歩みたいかという選択の問題ですから。

神さまを信じるのはいいことですが、通常は神さまを直接見ることはできません。あなたは近くにいる信仰を持っている人たちを見て「あんなふうに生きることができたらいいな」と思うわけですよね。それは、その人たちを通して、神さまの一部分、神さまの光の反射を見ているようなものです。

誰かを見て「こういう人のような生き方をしたい」という願いを持ったときには、注意深くその人を見ますよね。そして考えます。「この人の生き方はなにに根ざしているのだろうか。自分もそのような生き方をしたいのだが」のように。

あなたは周りの人をみて「この人たちの生き方の根底にはどうやら神さまへの信仰があるらしい。だとしたら、私もそのような信仰を得たいものだ」と考えておられます。それはまったく不誠実でもないし、ぜんぜん打算的な考えではないと私は思いますよ。

私たちの周りにある存在の中で、神さまに一番似ている(はずの)ものは人間です。何しろ人格を持っていますから。

あなたは物質主義的な思想を持っているといいますが、その思想はあなたと不可分なものでしょうか。言い換えると、「その思想」イコール「あなた自身」でしょうか。あなたの考えの100%を埋め尽くしていますか。きっと、そうではないと私は想像します。

物質主義的な思想を持っているのは、現在のあなたです。そしてそれと同時に「信仰を持つ生き方をしたいなあ」と思うのもまた、現在のあなたです。あなたはこれからの日々を、どのような生き方をしていきたいと願っていらっしゃるでしょうか。

それは、あなたがこれからの日々をどのように選択していきたいかと考えることであり、どのように歩むかをあなたが選ぶことではないでしょうか。現在の思想がこれこれだから、信仰を持つ生き方を選べないなんてことはまったくありません。

ところで「自分は、神さまを信じることができるのか」という問いには、あまり気づかない前提が隠れています。そしてその前提は重要な意味を持ちます。前提というより、盲点でしょうか。私たちはつい「自分がすべてを行う」と考えてしまう盲点です。まるで信じるか信じないかはすべて自分が行うかのように考えてしまうのです。

ここからは言葉で説明するのは難しくなります。「自分が信仰を持つ生き方を選びたい」というときには自分の方に主体があります。もちろんそれは大事です。しかしそれと同時に「神さまがあなたを愛してくださっているという働きかけに応答する」ことが重要な意味をもちます。ここでは、神さまの方に主体があります。その両方が大切なのです。

しばしば、キリストは花婿、クリスチャンは花嫁にたとえられます。そして信仰を得るというのは「プロポーズに答える」ということにとてもよく似ているのです。プロポーズに答える場面で、花嫁がすべてを行うわけじゃないですよね。プロポーズされて、そのプロポーズに答える。両方が大切というのはそれに似ています。

神さまはあなたにプロポーズしています。あなたが生まれる前からずっとです。それに気づいて、それに答える。神さまの愛に応答することがとても大切な意味を持ちます。

「こんな自分では信仰を持つ資格はない」や「自分がこうなってから信仰を持つ」のように考えるのは、自分ですべてを判断しようとしています。それは「こんな自分ではプロポーズされることはない」のように先走りして考えるのに似ています。神さまはすでにあなたにプロポーズしているのです。

神さまはあなたを愛しています。

そのことを深く知り、その愛に応える一歩を踏み出すこと。私はこちらの方に歩む生き方をしたい!でも私一人ではできないから、神さま、助けてください!と願うこと。それが大切なのです。

自分は打算的、物質主義的だから信仰を得られないというのは、自分は病気だから病院に行けない。病気だから治療を受ける資格がないというような、変な話です。実際は真逆です。このままじゃ自分はまずいと思うから病院に行き、治療を受ける。それと同じように、一人では歩めないと思うから神さまの助けを切望するのです。

私は、あなたのご質問を読んでそのように感じました。回答は以上です。

あなたの信仰が神さまによって導かれますように!私たちを愛してやまない聖なる主、イエス様のお名前でお祈りします。アーメン!

あなたとは少し違いますが、こちらのリンク先の質問と回答もお読みになってください。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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