2021年02月23日(火)


質問

おはようございます。いつも楽しくツイートなどを拝見させてもらっている大学生です。

つい先日、十数年共にいた愛犬が亡くなりました。もういないと思うとやりきれなくなり、作業も手に付きません。

今後も別れは起きるし、それが肉親なのかあるいは自分自身なのかもわかりません。人生の先輩としてお聞きしたいです。こういった別れとどのように向き合ってきましたか。辛いことを想起させるような質問でしたらすみません。

回答

ご質問ありがとうございます。

いっしょに過ごしてきた愛犬との別れはさぞつらかったことと思います。お察しいたします。また、ふとしたときに思い出すのも苦しいものだと思います。

いろんな場面で「愛する存在との別れ」はあります。その「愛する存在」との関わりに応じて、深く心はゆさぶられます。かなしみというのか、切なさというのか、やりきれなさというのか……そのような別れ、そのような思いとの向き合い方は、いうまでもありませんが、人それぞれになります。

そのようなやりきれない気持ちに直面したとき、愛する存在との別れがあったとき、私自身はどのようにしているか。神さまに祈ります。自分の思い、自分の気持ちの揺れ、やりきれなさ、そのすべてまとめて、私が信じる聖書の神さまの前に持ち出します。自分でその気持ちをどうこうするというのではない。そもそも、どうしていいかもわからない。ですから、神さまの前に持ち出すのです。

何が正解なのか。どうするのがいいのか。それは決まっていませんし、わかりません。ですから神さまの前に持ち出して適切に取り扱っていただくことを信じる。自分の気持ちを「神さまに委ねる」とも表現できます。

その結果はどうなるか。私の場合は(すぐにとはいえませんが)多くの場合は、心に落ち着きと平安がやってきます。そして、改めてこのように思うことが多いようです。「いまの自分の気持ちをていねいに受け止めることは、いまにしかできないこと。いまの私にしかできないことである」と。

時間が過ぎれば、悲しみも薄れ、辛さも和らぐでしょう。それは確かに自分にとっては苦しくなくなることを意味します。しかし、「愛する存在」との深い関わりがあったからこそ、現在の悲しみや辛さがある。ですから、簡単に苦しくなくなるのがいいとも単純にはいえない。

だからといって、必要以上に悲しみ続けたり、苦しみ続けたりするのも違う。ですから私は、自分の気持ちを丸ごと全部神さまの前に持ち出します。そして適切な取り扱うを願うのです。

そして、その上で、「現在の私にしかできないこと」をします。静かな思いに浸ったり(でも浸りすぎず)、悲しみに心をいためたり(でもいためすぎず)、過去の日々を思い返したり(でも現在を忘れず、現在をないがしろにせず)。

そのようにして、別れることとなった「愛する存在」との関係の深さに応じた時間を過ごすことになります。

「愛する存在」と過ごした日々は、私の大切な時間です。「愛する存在」を失って苦しむ日々もまた、私の大切な時間です。その中にあって、自分の気持ちのすべてを自分で制御しようとするのは無理がありますし、あまり適切なこととは私には思えません。自分を越えたものがそこにあるからです。

ですから、私のことを愛してくださる神さまに祈るのです。

私からの回答は以上です。

あなたの現在のお気持ち、愛する存在をなくしたお気持ちが、適切に着地できますようにと祈っています。

ご質問ありがとうございました。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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