2019年06月23日(日)


質問

結城さんこんばんは。私は今大学生なのですが、何というか、自分の人生を根本的に保証してくれるものなどないのだと強く思うようになりました。つまり、失望と後悔に満ちた人生を送ったり、自殺してしまったり、犯罪者になってしまうような道も、確かに自分の前に存在していて、そうならない理由などどこにもないというような確信です。結城さんに似たことがあるかはわかりませんが、このような強い不安にどのように対処しておられるのでしょうか。キリスト者になることも少し考えています。

回答

そうですね。あなたの言う通り「そうならない理由」はありませんし、保証もありません。それは実存的な不安とも言えるかもしれません。

たいへん根源的な不安でもありますし、少なくとも人間には根本的な解決を求められそうもありません。

あまり単純化はできないのですが、私がキリスト教に出会い、そして聖書を通して神を知り、ここに自分の基準と基盤を置くことになったのも、このような不安に一つの理由があります。

とそのように書くと、私がまるで神様を選んだみたいに聞こえますが、それほど単純なものではありませんでした。

この世で生きるすべての人が「人生の初心者」です。それぞれに、ハッと気づいたら、自分の初めての人生を生きているのですから。一人の例外もなく。

この世で生きるすべての人が「限られた時間」を過ごしています。人はみなこの世で限られた命しか持たないからです。たかだか三万数千日。それが私たち一人一人に割り当てられたこの世での時間です。

あなたとおなじような思いを私も若い頃に抱きました。残念ながら大学生時代ではなく、二十代後半でしたけれど。

キリスト者になることは、もちろん私は心からお勧めできることです。なぜなら、私自身が三十年以上キリスト者として過ごしてきたからです。

もしも私が信仰を得ていなかったら、私にとってきっと恐ろしいことがたくさん起きていたでしょう。孤独と失望のうちに自分で…という選択肢も考えてしまったでしょう。

それよりも恐ろしいのは、自分の能力のままに成功してしまって、とてつもなく大きな範囲に悪いことをなしてしまう可能性も。

大きな分水嶺は、自分の人生に関して、次の二つのどちらの認識になるか、です。

(1)「自分の力でこの人生をなんとかやっていける」と思うか。

(2)「自分の力だけではこの人生をなんとかやっていけそうもない」と思うか。

私は若いころは(1)でした。二十代後半からは(2)になりました。自分の力では無理。生きてくのは無理。また、他の人間に頼るのも駄目。

人はみな生きていくわけですが、そこには必ず人生観や価値観があらわになります。人生とはこれこれこういうものだから、自分はこういうふうに生きていこう。人生ではこういうことが大事なのだから、自分はそれを大切に生きていこう。そういう意味です。

人生観や価値観を持たない人はいません。明示的に「私の人生観はこれこれこういうものです」といわないにせよ、また「あるときはこういう価値観、別のときにはこういう価値観」という場合もあるにせよ。とにかく人間は何らかの人生観や価値観を必ず持って生きています。

あなたのような若い時代に「自分の人生についてしっかりと考えたほうがよさそうだぞ」と思うことはとても大事です。ある人は「人生カネだ」というでしょう。別の人は「家族を大事にしてればいいんだよ」というでしょう。またある人は「学問」別の人は「知性」さらに別の人は「名声」というでしょう。

私が思うに、カネも家族も学問も知性も名声も、ある意味ぜんぶ大事です。でもどれか一つだけ選んで、それさえ守ればいいというのは違うだろうなと思います。

私が人生について考えるときには「絶対に確実なことは何だろう」と思います。確実なことが一つあります。それは「私たちひとりひとりが、この世で生きる時間は限られている」という事実です。これは誰も否定できません。あなたもこの世を去る。私もこの世を去る。それは絶対に確実なことです。

では、その状態で「この世」だけを見ていて正しい判断はできるのだろうか、「この世」だけを見ていて正しい行動はできるのだろうか。と私は思います。

私は、どうせ生きるのなら幸福に生きたい。しかも絶対的に幸福に生きたい。誰かと比べて相対的に幸福というのではない。絶対的な幸福を手に入れたい。圧倒的な幸福を手に入れたい。誰からも決して奪われない幸福を手に入れたいと考えます。そして、そのような幸福が存在するとすれば、それは「自分の死」に対する解答を用意しているはずです。

なぜなら、自分は絶対確実にこの世を去るからです。その事実、自分の幸福をゆるがすようなその事実を無視して、幸福などありえないと思うのです。

別の表現をするならば、死生観なくして幸福を論じることはできない。私はそのように素朴に考えます。おカネも家族も名声も学問もなんでもいいのですけれど、それだけを基盤におくのはいささか違う。それらをないがしろにしろというのではない。それが第一原理なのかという問い。

そもそもすごく大事な話として「自分があてにならない」という原則があります。どうも、私が求める絶対的な幸福については「自分」という存在はまったくあてになりません。弱いし、すぐ道をそれてしまうし、忘れる。あてにならない。

私は以上のように考えています。何か結論めいたものがあるわけではありませんが、私の考えは伝わったでしょうか。私の思うことを書いたページを以下にいくつかリンクします。あなたの不安への何か助けとなりますように。ご質問ありがとうございました。

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結城浩(ゆうき・ひろし) @hyuki

『数学ガール』作者。 結城メルマガWeb連載を毎週書いてます。 文章書きとプログラミングが好きなクリスチャン。2014年日本数学会出版賞受賞。

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